戦いの野に花束を

介護?の話しや愚痴満載毒吐きの独り言 時々ハンクラ

防災の日

今日は防災の日ということで、

Twitterでは防災のことばかり流れてくる。

 

そういうアカウントをフォローしているからだけれど。

 

子供らが小学生の頃。

 

9月1日は始業式で防災の日

「引き取り訓練」があった。

 

引取り訓練というのは要するに保護者が児童を迎えに行って連れて帰ること。

 

子供たちはクラスごとに校庭に整列していて、親が担任の所に行って子供を受けとって家に連れて帰る。

 

これだけ。

 

でも、保護者の中にはそれだけのために仕事を休めない人だっている。

 

それで、祖父母やママ友とかに頼む場合もあって、そういう場合は連絡帳に書いておくことになっていたと記憶している。

 

うちがこっちに来た年、上の子は小学校4年生。下は幼稚園の年長。

 

上は区立の小学校。下は区立の幼稚園だったけれど(幼稚園はギジが勝手に転入手続きをして決められていた、他にも私立の幼稚園も沢山あったのに勝手に公立にされていた)幼稚園は同じ区立でも小学校とは離れた場所にあって、私が2人を引き取ることは難しかった。

下を引きとって、上の子のために小学校に行くにしても徒歩15分はかかった。

 

それで、その時は仕方がなく、ギジに上の子の引取りはお願いした。

翌年からは下の子も同じ小学校に上がったので引取りは大丈夫だった。

 

思えば、その時と私の祖母が亡くなった時に通夜葬儀のために帰省した時だけは子供らをギジと義ママンにお願いしたけれど、

そのほかの事で子供らを隣に預けて出かけたことはない。

 

 

そう、隣にいても私は義両親を頼らなかった。

 

引っ越してきて、上の子が熱を出した時もどこのお医者に罹ったらいいのかも隣には聞かなかった。

近所の同じクラスのお母さんの所に連絡帳をお願いする時に聞きに行ってクリニックを教えてもらった。

 

 

 

引越ししてきてすぐに私はものもらいが出来ちゃって、眼科はどこがいいか義ママンに聞いた。

義ママンは教えてくれたというか、駅前に看板があるでしょ!そこに行きなさい。だった。

でもそこはあまり良いお医者さんじゃなかった。

 

だから、子供を診てくれる病院を聞いても、知らないとか変なところを言われるかもって思ってしまったのだ。

 

後から気がついたのは、義ママンが私に言った眼科は昔義妹が行っていた眼科と名前が違ったこと。

 

たまたまこっちに私らが来ていた時に、独身だった義妹がものもらいができたから眼科に行くと言っていたことがあったことを思い出したので

眼科のことを義ママンに聞いたのだった。

 

もっと後から分かったの義妹が行っていた眼科は小学校の校医さんだった。

次からはそっちに行ったけれど。

 

 

 

もちろん、義両親から金銭的な援助もしてもらっていない。

 

家の事も二世帯にするとギジが勝手に決めて、間取りも勝手に決められて、

頭金はギジ、ローンは夫だった。

ペンキの塗り替えも、日にちも内容もいつもギジが勝手に決めていた。

お金はギジだったけれど。

全部ギジが勝手に決めて

「そういうことだから承知しておいてくれ」

 

ずっとこうだった。

 

 

だから、もう私らの好きにしてもいいでしょう?好きにさせてよ、と思うのよ。

 

 

毎年、嫌な気分になる防災の日のお話。