戦いの野に花束を

介護?の話しや愚痴満載毒吐きの独り言 時々ハンクラ

あの時も金曜日

あの震災の日。

 

あの頃は週3日パートに出ていて水、木、日が出勤日だった。

 

その日、私は休みだった。

 

お雛様をなおす日がなかなかなくて(多分、自分が休みの日と晴れた日が重ならなかったのだと思う)

国会中継なんか見ながらお雛様をなおしていた。

 

そうしたらテレビで緊急地震速報が鳴って、

ああ宮城なら遠いなぁと思っていたら、

窓のサッシがガタガタいいだして、あれよあれよという間にグワングワンと揺れ始めていつ終わるともしれない揺れに泣きそうになりながら

テレビや食器棚を押さえていた。

 

揺れがやっと収まって、娘が2階から降りてきた。

あ!!ワンコ!!!と探したら廊下の隅っこで腰が抜けたようになっていてブルブル震えていた。

大丈夫だよ、もう怖くないよ、かーさんいるからねとワンコをもふもふしたことは覚えている。

 

実家の両親が心配になって電話をしても出ない。

メールをしたら、なんと両親は高知に帰省していた。

 

なんだ無事で良かったよと思った。

 

祖父母の法事があって帰省していたのだが、弟も私も知らなかった。

 

関西方面の友達からメールや電話があって、ものすごく怖かったよと話した。

友達からは、東京にいてもあんたも被災者と一緒なんやから困ったことがあったら言いやと言われた。

 

我に返ってお雛様を押入れになおして、2階に上がったらいろんなものが倒れて落ちていて大惨事だった。

 

これ、片付けなきゃ寝られないやんか………。

 

夫は会社から歩いて夜遅くになんとか帰ってきた。

息子はもう一人暮らしをしていたが、やはり歩いて帰宅したそうだった。

 

私は百貨店に勤めていて、次の出勤日は日曜日だった。

 

日曜日もダイヤは乱れてはいたものの土曜日のように運休はしていなかった。

 

が、流石にあれだけの地震があったあとである。

 

百貨店にお客さまはいらっしゃらない。

 

そんな日が何日も続いた。

 

地下の食料品売り場のお弁当も売れ残るので社食で割引販売がされていて、買って帰ったものだった。

 

震災当日は、帰宅できない人々のために店舗を開放して寝泊まりできるようにしたそうで、従業員も社員食堂や休憩室で泊まったそうだった。

 

 

近所のスーパーには物がなく、本当に困ったが、出勤してみると意外とデパ地下には食料品が売っていたのだ。

 

 

 

 

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あれから11年。

 

ワンコも父も、義ママンももういない。